昭和四十七年六月八日 朝の御理解
X御理解 第二十八節 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸が えをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はで きぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も 途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるま で、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよ う元気な心で信心せよ。」
誰でもおかげを頂きたい。本当におかげの世界に住みたいと思うたら、ここのところの道理をよくわからせて頂いて、成程、七分、八分目で止めれば、いつまでたっても井戸替えは出来ない。
井戸は清水になるまでと。おかげは、こんこんと湧き出ずるようなおかげの頂けるところまでという意味だと思うのです。
もう、本当にね、おかげは降るようにあっているのだもの。そこで大地のような信心、受けて受けて受けぬかせて頂くという生き方。天はもう、限りなく恵んでおられる。その恵んでおられるものを、それを私共が地の心で受けとめるという。
もう、本当に降るようにあっておるのですよ。おかげというのは、それも私共が頂ききらんだけの事。大きなおかげは頂きたいけれど、大きな受けものが出来ない。
正確なおかげを頂きたいなら、やはり正確な信心をしなければならないように、それを私は、信心の節度だとこう言う。節度がなくてはね,おかげが受けられません。 御理解に信心は大きな信心がよいとおっしゃるけれど、大きな信心を取り違えますとです、野放図な事のように思う事がある。もう、よかよかそら神ながらじゃがと言うてから、神ながらではないものも、神ながらにしてしまうような生き方。よかよかという生き方です。
野放図という事では決してない。大きな信心というのは、もう、いよいよ自分が小さくなっていく事なんだ。自分という者に、まあ、いうならばね、私共取次者とするならね、もう、いよいよこの御結界の中に、はまりこんでしまう事なんだ。
そこに心は天地の隅々にまで広がられる。天地を自由自在に、自分の心を使う事が出来る程しのおかげが受けられる。
大きな信心とは何か、勿論、大きなおかげを頂かにゃならん事だけれども、その大きなおかげを頂く為には、自分という者をいよいよ窮屈な座というかね、窮屈なところへ追い込んでいくというか、追い込むそれが又有難いとわかる信心にならにゃいかん。
昨日筑水青年教師会の先生方の信心実習会がありました。ここで皆んな勢ぞろいされて、そして現場に向かわれて、そして一日実習を終わってから、また全部こちらへ帰って見えました。そして合楽の親先生のお話を頂きたいというのです。
しかし私は、思いましたねえ、有難い、まあ先生の話の大した事はないでしょうけれども、ほとんどが甘木関係、田主丸が博多関係。それでまあ、一緒にお食事でせさせて頂いたんですけれども、いろいろお話をさせて頂いた中に、とにかくね、結論として私が申しました事は、信心が好きにならなければいけないよと。どげなふうですか、皆さん、御神前にぬかずかせて貰うと言うか、御広前に出らして頂いて、何か知らん一ぺんでもようけ拝みたいといったようなね、信心が好きという事は決して拝むという事だけじゃありませんけれどもです、神様の前は素通りは出来ん、通る度に拝まにゃおられない程しのものをね、神様に感じるおかげを頂かにゃなりません。だからまず、拝む事が好きにならにゃいけん。そしてやはり神様に好きになってもらわにゃできん。もう、好きつ好かれつというところからしか、よいものは生まれてこない 例えば、好きな人の為ならば、どんなに自分を犠牲にしてでもいとわないでしょうが。痛いと言やさすってあげたい。痒いと言やかいてあげたいにならなければならない。神様が好きにならなければならない。
そこから神様は私に何を求めたまうのであろうか、何を願っておられるのだろうかというところに神様の痒いところに手の届くような信心をさして貰うから、又、私共の痒いところに手の届くような行き届いた、いわゆる降るようなおかげを頂きとめる事が出来るのだ。
信心を好きにならにゃでけんと、そんなら好きになる為には、どうあらねばならないかと、もう限りがありませんですけれどね、そういうお話をさせてもらった。
例えば今日、二十八節を頂いておりますとです、八分、九分でやめるという事、止めようと思ってもやめられないと言う程しのものにならなければならない、という事だと思うのです、この二十八節は。
元気な心で信心しろとおっしゃるから、元気な心で信心させて頂きよったら、神様のお心もわかり、お心に添う事がどんなに有難い事かという事がわかる。元気な心で信心させて頂きよるうちにそれがわかってくる。いわゆる信心が好きになってくる。 だからその元気な心で、折角信心させて頂くのですから、焦点を間違えないようにここなら絶対というところを、いうなら焦点をしっかり定めてからの、いわゆる元気な心での信心でなからねばいけない事は勿論ですね。
昨日の最後に、若先生が言っておりました。どうでもひとつ、こういう甘木もなければ久留米もない。合楽もない。もう本当にお道の信奉者一同が、特に若い青年教師が時々にはこういう会合がいいですねえと、もう何もさわるところがない。そういうものを作りあげていかなければいけませんよね、という話をしてました。本当にこれが私共の青年時代、もしこのような雰囲気があっておったら、もっともっと甘木の初代当たりのその信心を頂いとったに違いない。何かしらこういったら、いけないような雰囲気があったんです。
ですからこういう雰囲気を作っていく。世界はひとつという人ですらあるのですから。教団人が一つになるという事は、神様の願いはそれなんだ。全教一新してと三代金光様はおっしゃておられたが、私は全教一新という事は、そういう事だと思う。
私はそういう事を若先生が言いよる時に、頂いたのがね、『林洋文堂』『林洋文堂』と頂いた。林洋文堂というのは、月々のおかげの泉を、印刷される印刷屋さんなんですよ。いわゆるおかげの泉は、私が今日頂く、もうおかげというのは、それこそ降るようにあっておるようにです、おかげというのは、それこそ湧くようになっておる おかげの泉、もう清水が湧くように、ふるようにおかげの泉である。
林洋文堂という事は、林という字は木が二つ書いてあるでしょう。今若先生が言っておる事は、もう合楽もなければ久留米もない、勿論甘木も博多もない。もうお道の信心させて頂いて、しかも、同じ年頃の人達が集まって、本当に金光大神の信心を頂く、人は又それを伝えていこうというような、終生この金光大神に命を捧げた人達ばっかりの集まりなのだから、本当に助かられる道があるならば、助かる道をどこへ行って求めても本当なのだ。
私は林という事は、心を合わせるという事だと思うた。木が二つあるでしょう。洋文堂の洋とは、太平洋の洋が書いてある。あれは、ひろいとも読む。それこそ洋々たる広々とした、それこそ海原のような心。そういう私は心で交う。文という事、あやあやという事は交わる事。成程、今日の青年教師の方達の信心実習のいうならば、最後のしめくくりが、合楽の持って来られた有難い事になるなあと私は、その時思うた もう、とにかく心が合わなければいけません。例えばそんなら、夫婦兄弟でも同じですよ、二人の心が合わなければいかん。しかもお互いが大きくならせて頂く事の、豊かな心にならせて頂く事の、研修をなされていかなければならない。片一方だけが大きかったんじゃ駄目。やはり皆んなが大きゅうなる事の為に、精進させて頂かねばならん。壮健で繁昌するよう元気な心で信心せよ。その元気な心で信心させて頂いて信心の焦点が、いよいよ豊かにならせて頂こう大きくならせて頂こうと願うならば、私共の願いであるところの限りないおかげがです、豊かに大きゅうなっていかないはずがない。ここのところに焦点を置いてですね、お互いの信心は精進されてければならない。
それはもう何十年と言うてお日参りしよっても、焦点が違う。それは間違いではなかろうけれども、昨日も青年教師のある方が言ってました「先生、思い込みという事はどんなもんでしょう」と、私は「思い込みという事はおかげにつながる事ですよ」と申しました事です。
実は私、学院で一年間金光様のお通りになる道をね、ずっと清めた、毎日。それがね段々そうさせて頂いておるうちにね、何かしらんけれども喜びが湧いて来た。そして、金光様がお通りになる道を清掃したり、きれいにする事に専念させて頂いたらねおかげが頂けれるという思い込みが段々出来てきたと。
素晴らしい事だね、そうなんだ。そこでね、信心とは段々その思い込みが、より本当な事を思い込ませて頂く稽古なんだ。
私の知ってる方で、もう四、五十年位、その教会のお便所のお掃除を毎朝なさる方がある。その人はどういう事、思い込んどるかというと、もう私は他の事は出来ませんから、これさえしときゃおかげ頂く。病気はせんとこう思うちゃる。何十年間と病気をした事がない。思い込みなんです。思い込むという事は、もう信ずるという事なんだ。神は信ずる者を又、信じなさるのです。だから、それだけの思い込みではいけないでしょうが、思い込みが、もっと広い大きなもう、間違いないところへ、一つの思い込みが出来れる信心。
それで現在、合楽ではもう和賀心さえ目指せばおかげが頂けるという思い込みを一生懸命作ってるよと話した事でした。これならもう絶対、これは世界に広げていけれるひとつの普遍性を持っておる。和賀心になれ、一生懸命拝めばおかげが頂けるとか一生懸命御用すりゃ、もう病気はせんとか、そういう思い込みですらおかげが頂けれるのであるから。
教祖金光大神が、もうとにかくいつも自分の目指しにしておられたであろう和賀心和らぎ賀ぶ心、いわゆる生神金光大神の境地。
昨日私は、矢野岩次郎先生が書かれた御本の中に「どこを折っても、ひょっとこが飛び出す」とい御理解を聞かしてもらったんですけどね、もう金光様の信心のこれは真髄なんですよ。長い棒の飴にしこんである、どこを折ってもひょっとこの顔が出てくる。金光様の御信心させて頂く者は、どこを折ってもいつでも、どんな場合であっても、飛びだしてくるのは和賀心。だからそれを目指すという事。それに精進するという事。私のような信心でもです、それに焦点を置いて信心させて頂きよったら、おかげを頂いて段々、和賀心の和、人が笑おうがそしろうが、私の和の心はくずれない いよいよ頑丈になってくる。普通で言う和とは違う。平和の和とか、そういうのじゃない。教祖がおっしゃる和と言うのはね、もう、壊れないもの、不壊のもの、その和の心が壊れないというのが、金光教祖がおっしゃる和なんだ。賀は、祝い喜ぶ心とおっしゃる。そういう心。いつも赤飯でも炊いて祝いたいような心。それこそおめでとうございますと言いたい心。そういう心を目指さして頂く。この御教えの全てがねこの和賀心を頂く事の為の御教えと言うてもよいのですよ。実を言うたら、だからこれならばです、これを思い込むといううことは大変な事なんです、だから。
しかもこれならばです、アメリカの人にも伝えても、ロシアの人に伝えても、どんな野蛮な人達に伝えてもです、こういう心にならせて頂く事が、いよいよ人間の幸せですよ、幸福ですよという事が言えて又、合点させられる事なんです。金光教の信心の素晴らしいとこはそこだと思う。
和賀心に、しかもそれにはおかげが降るようについてくる。これを精進すると、それこそ泉の湧くように頂けれるのです。それを頂きとめれる心が和賀心。しかもその和賀心が、いよいよ豊かに大きくなさせて頂く事の内容と言うか、和賀心の内容にいよいよそれが大きく育っていく。
その為に私共がね、信心させて貰うのであります。それはやはり苦しい事は、苦しい。これ程信心するのにというような事もある。けれども、それこそ今こそ、七分目八分目の井戸がえが、それこそ汚いものがどんどん上がっておる時だとわからせて頂いたら、それも又、有難い。為にはそこんところの本当の事がわからして貰うて、信心が好きにならなければ出来ない。もう、好きになったらね、いがぐりを服にはさんだっちゃよかという事になる。
はあ-、もう信心しおってどうしてあげん貧乏が続くとじゃろうか、と言われるような事がありますけど、そんな事に耳貸しちゃならん。今こそ私の方では井戸ざらいが出来ておる時なのだから。しかもその井戸ざらいをさせて頂きながらです、自分の心の中に本当の事の思い込みがいよいよ出来ていくという事。
御用すりゃ助かると例えば、その位の思い込みですら、その人が御用に一心を打ち込むと、やっぱりおかげ頂いとるでしょうが。これはだから枝の枝、葉の葉なんだ。 ですから私共が、その和賀心という絶対のものへ焦点を置いての、例えば苦い事もあろう、臭い事もあろう、辛い事もあろう、けれどもそれをです、和賀心を育てて下さる為の神様の御神意だと思うから、それを御事柄として受けるのだ。
病気、災難の根が切れる。いわゆるめぐりのお取り払いを頂くと、それもだから、楽しゅう、有難とうお取り払いを頂きたいね。
やれ痛や今霊験をという心になれよと。信心しておって変わった事が起こってきたらおかげと心得て信心せよと、お願いをさせて頂いて、反対に熱が出だしたというのがありますよ。信心させて頂いて、次々と難儀な変わった事が起こってくるような事がある。という事はそれを有難いと心得て信心をさせて貰う。だから、いよいよ水が清まってくる。そして後は、それこそこんこんとした水が湧き出ずるようなおかげを頂く事が出来る。
同じとっくりでも小さいとっくりがありますよ。だから折角ならば一升とっくりでなからないかん。一升とっくりというのは、私の一生という事。しかも徳と利が一緒に頂いていけるという信心。もう、この方の信心はね、絶対徳とおかげが一緒に頂いていける道なんです。ところがおかげだけは頂いていきよるけれども、徳は伴わないというのは、例えば、思い込みを持っておかげ頂いてますけれども、焦点が違うからです。御用すりゃ助かると、確かに御用すりゃさっさと助かる道が出来てくるです。 けれども、徳は受けられない。例えば久留米の初代とか甘木の初代あたりがそれこそ、御用という事には大変な力を入れられました。けれども、先生方の場合にはね、今言う、自分の豊かな大きな心、いうなら和賀心がね、もう、やむにやまれん心があの御用になったから、御用がそのまま徳になったんです。もう御用というのは、させて頂かなければおられない心、それが真心なんだ。
御用すりゃ助かる、助かる為に御用するなんておかしな話、おかしな話でもです、それを思い込めば、お便所の掃除を続けておれば何十年と病気をせんですむおかげを受けられるけれども、お徳にはならん。
そこで思い込ませて頂くならば、本当なところ金光教の信心のもう、世界無比と最近私が言っておるね、無比の信心に私共がならせて頂く為にです、教祖金光大神が天地書附にお示し下さるようにです、和賀心を刻々願うていくという信心。
そこで和賀心をいよいよ頂いていく事の為はにはという信心又は、この教典の全てというてもいいと私は思います。しかも私の心から私の家庭、私の周辺にそれは世界中の国々にまでです、広がっていく願いを立てさせて頂く。そういう大きな信心を目指す。大きなおかげを頂きたい為には、いよいよ自分という者が、小さくならなければいけない。もういよいよ反比例して、大きな信心とは野放図という事では決してない。いよいよ自分という者をある意味では、がんじがらめでね、くくって窮屈になっていく、その窮屈な中に味わいが出来てくる。
その事を今日強調しておる事を、この天地嚴(ここの御広前の横に神穴がある)ト注連縄が張ってある。そしてこの岩は大坪総一郎、こちらは生神金光大神、これ等にも注連縄が張ってある。というのは、もうこの注連縄か一歩も外へ出られない程しにこれを清めていこう。それこそ吾とわが心が拝めれる心、いうなら決して野放図な事ではない。もういよいよ自分という者を窮屈なところに持っていくという信心。
ここのところはいろいろ説明が足りないと思いますけどね、例えば、そんなら皆さんがお日参りをさせて貰うという事は、もうそれだけあなたを窮屈にされた訳なのです。大体ならまだ寝とったっちゃよかとこでしょうが。それを日のうち一時間でも二時間でもいわば、自分を窮屈なところに置いておられる。そういう例えば信心が、もっともっと窮屈なところに置かれれば置かれる程、おかげは偉大になってくる。それが又、楽しゅうなってくる。それが有難うなってくる。
折角、壮健で繁昌するような元気な心でと、元気でいよいよ、繁昌、日勝り月勝りとおっしゃる程しのおかげを頂いていく事の為に、元気な心が必要である。
その元気な心で、只、信心するという事は、そのうちには信心か好きになるだろうという、これは神様の願いがこめられてあるその中に。だから信心が好きになる為にはです、いよいよ豊かな大きな心を目指さして頂いて、ほんに昨年あたりなら、こういう問題なら私しゃ震え上がってしまうだろう、こういう事がおこったら。
ところが一年後の私はこれを、有難いと受けられるという事は何と有難い事かという事になっくるでしょうが。そういう信心のなかった時には、そうにゃ腹が立った事じゃろう、ところが腹の立つどころか、お礼を申し上げておりますとういうような心が、育ってくるから有難いのだ。
だから御用すりゃ助かるという思い込みではそういう事が全然駄目です。やっぱ人から笑われた時には、信心の無い者と同じ位に腹立てた。
ちょっとした問題を問題にしてしまっておる。和賀心という事には、もう問題が問題でなくなってくるという程しの心が自分の心の中に、おさめていけるのですから、楽しいのです。元気な心で信心せよというのを、只、がむしゃらに、元気で信心するというだけではいけない。もう間違いのない焦点をはっきり定めて、しかも信心させて頂いておるうちに、楽しゅうなってくる、有難うなってくるという信心を。
信心しておれば一年一年有難うなるとおっしゃるがね、一年一年有難とうなってないなら、絶対焦点が間違うとる時です。おかげは頂いとっても、最近私が言うように本当に生神金光大神と唱える時です、昨日の生神金光大神と今日の生神金光大神は違うのだと、私の内容が。
だから又、生神金光大神の働きが変わった働きとなって、表れてくるのだ。十年前の金光大神も、十年後の金光大神も同じ事であってはならない。
そういう心がです、元気な心で信心させてもらい、焦点を間違えずして、元気な心で信心させて頂くところからです、それこそ信心がいよいよ好きになる。
いよいよ信心が好きになりますとね、もう、本当に暑けりゃ暑いで有難い、寒けりゃ寒いで有難い、もうそれは本当にそうなんですよ。信心が好きになって・・・。
例えば私共がここへ座らせて頂いて、まあ今は冷暖房でこうしてますけど、椛目の時代なんかはもう、それは一日座っとるとそれこそ、下の座布団はずたずたになる位です。じゅくじゅくになって。もうそれこそ、熱いような汗を背中に感じるです。前からは有難涙がぼろぼろ流れよったです。
そういう窮屈な、そういう難儀な中になってです、有難涙がこぼれてくるという事はね、もうそれは大変な事なのです。私は生神金光大神は、そういう信心、そういう道をね、教えられたと思うのです。どうぞひとつ元気な心で信心するのは結構、そこで焦点を間違えずに、本当に信心が好きになるおかげの頂けれる焦点を定めて、進めていかなければならない。そういううちには、井戸も清水になるでしょう、それこそおかげの泉じゃないですけれども、もうそれこそ、湧き出ずるような、神様はおかげは降るようにあっておるとおっしゃるのですから、それを受けとめる大地の心というのが、今日私が申しました事が大地の心なんです。大地の心とは、受けて受けて受けぬいていくという心が大地の心です。そこから楽しい信心、有難い信心が生まれくる どうぞ。